おざわゆき【凍りの掌シベリア抑留記】ネタバレの内容と感想・戦争の記憶

     

2016-12-03_212228

おげんきですか?うめきちです(^0^)

おざわゆき先生の傑作【凍りの掌シベリア抑留記】は

2012年7月20日に刊行されました。

作者のお父さんが実際に体験した過酷で壮絶な

シベリア抑留を聴き取りながら、

その記憶をマンガに描いた作品です。

昭和20年初春、東京で下宿していた大学生の

小澤昌一は学徒動員で召集されました。

初年兵となった19歳の彼はわずかな訓練期間を経て

連れて行かれたところは真冬の満州国の

関東軍の兵舎でした。

しかし戦争はすでに敗戦の気配が色濃く、

小澤はここで終戦を迎えたはずでしたが・・・。

本当の絶望と恐怖はここから始まったのでした。

今回の記事は、

◆【凍りの掌シベリア抑留記】のあらすじと感想

◆関連記事と書籍情報

◆まとめ

以上の紹介をしていきたいと思います。

(※なお、ネタバレのため、

結末を知りたくない方はご注意くださいね!)

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【凍りの掌シベリア抑留記】のあらすじと感想

第一章 出征編

『生きて虜囚の辱を受けず、

死して罪禍の汚名を残すこと勿れ

(戦陣訓/東条英機 1941.1)』

昭和18年の東京で、小澤昌一(19)は

東洋大学予科の学生として学んでいました。

その日は学校から総出で学徒出陣壮行式を

観覧していました。

その後、戦争の激化に伴い、学生も勤労動員に

かり出されるようになりました。

そして、昭和20年1月末、小澤昌一のところに

「臨時召集令状」が届けられました。

軍への入隊は故郷からなので、

迎えに来た父親と共に名古屋へ帰ると

翌日には簡素な出陣式に送られて兵庫県加古川市の

北の歩兵連隊に入隊しました。

わずか2週間の訓練を経て、

部隊は博多から満州国へと移動しました。

列車で移動する際に

「窓を開けてはならん」という上官命令の意味は

窓の隙間から見える外の景色の悲惨さを

初年兵に見せないためでした。

2月20日に北満州遜呉(きたまんしゅうそんご)に

到着し、さらにそこから歩いてやっと着いたのは

関東軍の兵舎でした。

満州の冬はとても寒く、払っても払っても

眉毛に霜がすぐに着くのです。

しかしこの兵舎は空ばかりで

守るべき飛行機の1機もなく、

糧秣庫を守っているだけのような毎日でした。

2ヶ月後、在満の古参兵達が

招集されて入ってくると兵舎の雰囲気は一変し、

古参兵達の横暴な振る舞いや

有無を言わせない暴力が昼夜を問わず続く日々と

なっていきました。

途中から満州義勇隊少年たちも

配属されてきました。

彼らは満州の開拓団にいた子供たちでした。

8月9日に日ソ中立条約を無視した極東ソ連軍が

突如侵攻を開始してきて応戦する間もなく

兵舎は壊滅状態となり、別の部隊の所へ

移動することになりました。

しかしこの時8月16日、

上官の口から驚愕の言葉が出たのです。

「大本営指令により、停戦命令の通達があった」

日本は戦争に負けたのです。

翌日、兵士達は全員武装を解除されて新しい衣服に

着替えさせられた後、

遜呉まで歩いて移動しました。

待っていたのはソ連軍です。

日本兵達の持っていたわずかばかりの身の回り品は、

物資の乏しい国であるロシア兵たちに

取り上げられてしまいました。

満州国の各地では終戦とともに、

満人たちの日本人に対する怒りが爆発して

リンチや暴動が起こっていました。

ある日、ソ連兵が

「ヤポンスキー・ダモイ(日本人・帰国)」

と告げて、日本兵たちを連れて港のある街へと

向かいました。

しかし、遠くに見えてきたのは海ではなく

黒竜江(アムール川)だったのです。

帰国できると信じていた日本兵たちは

ソ連の船に乗せられて連れて行かれた先は、

ソ連領のシベリアでした。

ソ連最高指揮官スターリンの指示により、

日本人50万人が強制抑留されたのです。

第二章 収容所編

どこに向かっているのかもわからいままに

歩かされていた彼らが時折農園のようなところに

ぶつかると、ソ連兵はそこを指さし

掘れと言います。

土の中から出てきた生の芋をソ連兵たちは

平気でガリガリと食べるのです。

驚いている日本兵たちもそれが自分たちの

食糧なのだと気づいて生のままで食べました。

やがて到着した「キヴダ収容所」という所は

小澤昌一が地獄を見ることになった

恐ろしい場所でした。

この年の冬、シベリア強制労働者の死者の数は

最大を記録し、

この収容所で、実に半数の収容者が犠牲となり

壮絶を極めました。

ここに元々あった建物はすごく粗末で屋根も無く、

とても住めるような状態ではありませんでした。

みんなの持っているテントの布を張り合わせたり

何とか補修しましたが、極寒のシベリアの寒さは

到底防ぎ切れるものでなく、これからどうなるのか

みんな不安と寒さと空腹の中で眠りました。

日本兵たちがさせられた作業は炭鉱堀で、

来る日も来る日も石炭を掘り続けさせられました。

食事は雑穀の入ったような黒パンと薄いスープが

一日2回だけ出されてみんな一様に

やせ細っていました。

時には夜中にカンテラもなく真っ暗な中での

石炭の露天掘りなどをさせれることもありました。

マイナス40度なら作業は控えられましたが、

マイナス30度なら外に出されて働かされるのは

言葉では言い表せないほど厳しい作業でした。

具合の悪い者も無理やり働かされて

死者は毎日のように増え続けていきました。

凍った大地に穴を掘り、亡くなった仲間たちを

毎日のように埋めていきました。

もう、死人が出てもいつか自分にも順番がくると

思って見ているだけになっていき、

感覚はどんどん麻痺していくようでした。

そんな中、小澤昌一はいつもと違う体調の悪さに、

倒れてしまいました。

『オレもここで死ぬんかなぁ』と思いました。

第三章 帰国編

小澤昌一は宙に浮かんでいる夢を見ていました。

亡くなった仲間たちが向こうから押し寄せて来ます。

目を覚ますと収容所の病院のベッドの上でした。

彼は急性肺炎で倒れたのです。

昭和21年3月のことでした。

病院と言っても、簡素なベッドがあるだけの

お粗末なもので患者たちはシラミと南京虫に

悩まされていました。

ここで死ぬと、即座に解剖されてその後は

白樺林に埋められるのです。

『オレらは白樺の肥料に来たんか・・・』

死を覚悟した小澤でしたが、

やがて回復して退院すると元の建物に

戻されました。

しばらくすると、部隊の編成替えがあり、

身体が弱くて使い物にならない者たちは

別の収容所に移されるということでした。

小澤昌一もその中の一人で、

同じ飯を分け合った友たちと別れるのは辛く、

またきっとどこかで会おうと約束しあい、

トラックに乗せられて移動していきました。

次の収容所「ライチヒンスク」は大きな建物で

屋根もきちんとあり、

ここでは風呂に入ることができ、

食事も少しましになりました。

ここでも土木作業や穴掘り、溝掘り、

丸太切りやその運搬、煉瓦工場での煉瓦作りなど

いろいろな作業をさせられました。

やがて春が来て少しづつ暖かくなる頃には、

作業の行き返りに日本の歌謡曲を歌いながら

歩くようになりました。

建築現場の作業では、日本人の器用さに

ソ連人が驚いて「ハラショー」と褒めてくれます。

少しだけれど、仲良くなったソ連兵からタバコを

もらったりもするようになりました。

そんなある日、キヴダ収容所の日本兵は

全員帰国したという話を聞き、

小澤昌一は取り残されたような喪失感に

襲われたのでした。

日本人の手先の器用さや技術のある者は

重宝されるようになり、重労働も免除されるように

なっていきました。

未成年で徴兵されて何の技術もない小澤昌一は

あきらめの気持ちで『しかたがない・・・』

そう思うだけでした。

昭和23年のある日、

数人の日本兵がどこかへ連れて行かれ、

2ヶ月ほどして戻って来ると

すっかりスターリンの社会主義思想に

洗脳されていました。

そして他の日本兵たちに社会主義のすばらしさと、

腐り切った日本国家について

説いてまわるようになりました。

彼らのようにどこかに連れて行かれ、

洗脳された日本兵たちは「アクブチ」と呼ばれ、

周りを先導してやがてその余波は

どんどん大きくなっていきました。

彼らに同調しない者は糾弾されて吊し上げら

精神的におかしくなってしまう者も

出るようになっていくのでした。

再び小澤昌一を含む10人程の日本兵の移動が

命じられました。

今度の場所はアムール川の中の島でした。

ここで大きな鎌を使って草を刈り、牛の飼料を

作るのです。

建物は何もなく、自分たちで作ったカヤやヨシの

ような草で囲った簡素な小屋の中は

蚊が多くて困りました。

夏の半ばにまた移動があり、今度は農場でした。

ここでは農夫たちも優しくて

これまでの生活と比べると天国でした。

やがて9月になったある日、

作業を終えて宿舎に戻ると待っていたソ連兵が

「ヴィ ダモイ」と言いました。

「ダモイ」とは「帰国」のことでしたが、

今まで散々ダモイダモイと言っては

振り回されてきたので信用はしませんでした。

シベリア鉄道の駅から列車に乗せられて

何日も揺られ、窓の外に見えてきたのは

間違いなくナホトカの海だったのです。

本当に帰れるんだと思うと涙が溢れて止まりません。

ここでも待っていたのは強力なアクチブでした。

アメリカから日本を取り戻し、

新しい社会主義の祖国を作ろうと言っています。

ここに着いて4日目にようやく「永徳丸」という

日本の船がやって来ました。

小澤昌一は船に乗船すると

そこで懐かしい顔に出会いました。

キヴダ収容所で一緒だった加藤です。

お互いの無事を喜びあいながら、

船の中で出された日本の食事で乾杯しました。

何年ぶりかの銀シャリです。

美味すぎて涙が出ます。

小澤昌一たちは甲板から

収容所で亡くなった仲間たちに呼びかけました。

「せめて 魂は共に帰ろう!」

3日後の昭和24年11月4日、

ついに美しい日本が見えてきました。

船は舞鶴港に入港しました。

帰国を果たした小澤昌一は最初、

市役所の人事募集に応募しましたが、

シベリア抑留者は「アカ」の疑いをかけらていて

不合格になりました。

(アカとは共産主義者のことです)

その後、裁判所の試験に受かり、

調査官として定年まで勤め上げました。

彼は80歳を超えた今、舞鶴港で行われている

「引揚最終船入港50周年」のイベントに

漫画家の娘・おざわゆき氏とふたりで

参加しています。

あの日から60年以上たった舞鶴港を見ながら

「ここに来てよかったわ」

感慨深げにそう言いました。

感想

優しい絵柄で淡々と描かれていますが、

内容はとても壮絶なもので、

読み進むにつれて

とても理不尽なものを感じ、

涙が止まりませんでした。

この物語ははおざわゆき先生が

聴きださなかったら

お父さんの胸の奥にしまい込んで

お墓の中へ持って行く

つもりだったそうです。

戦後70余年の現在、戦争の記憶は

ずいぶんと遠いところへ

行ってしまったように思います。

戦争の体験者はみんな70余歳以上となり

生存している方も年々少なくなり、

語り部となる方は今やごくわずかに

なってしまいました。

私も幼い頃に祖父から戦争体験を聞き、

訳のわからない恐ろしさを感じたのを

憶えています。

日本は今また戦争に向かって行きそうな

危機感を孕んでいるところが

あるようです。

みなさんにはぜひ、

この【凍りの掌シベリア抑留記】と、

同作者のお母さんの戦争体験記

【あとかたの街・全5巻】を読んで

戦争について考えてほしいと思いました。

関連記事と書籍情報

合わせて読みたい記事・・・http://bihauku-4.xsrv.jp/archives/2378

【(漫画あとかたの街)の内容とネタバレ!感想と原作者の体験まとめ】

書籍情報

【凍りの掌シベリア抑留記】

【あとかたの街・全5巻】

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まとめ

今回の記事は、

◆【凍りの掌シベリア抑留記】のあらすじと感想

◆関連記事と書籍情報

以上の紹介でした。

この本は戦争が二度と起こらないように、

みなさんにも是非読んでもらいたいマンガです。

ではでは(^0^)/

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